住職法話「永代経と読経」

お釈迦さまの説法は「金口の説法」と言われます。お釈迦さまのお言葉は、永遠に輝くというたとえです。いまお経は「金口の説法」そのものです。

 勝圓寺で4月におつとめする「春の法要・永代経」はまさに、このお経のご縁が永代(時代を超えて永遠に)に続き伝えてこられたことに感謝し、そしてそれが次代に続くことを念じておつとめする法要です。

 さて仏教の勉強方法として、学問的に理解を深める為にテーマを決めて複数人で論義をする習慣があります。現在も7月に西本願寺では「安居」(あんご)という研修会がありますが、その中で毎日の講義の最後に、「会読」(かいどく)といって、問者と答者に二手に分かれて論義をしています。平成24年の「安居」では、この「会読」のテーマに「読経意趣」(どきょういしゅ)があげられました。

 住職も参加していたのですが、その時の「判決」(論義の裁定を責任者である和上様がされます)が、印象に残っています。

 読経の「意趣」(おもむき・心構え)とは、「読経」は称名に伴って行われる、仏徳讃嘆と報恩の意から行われるもので、「自信教人信」すなわち阿弥陀さまの大悲を自ら信じ、他に伝える、阿弥陀さまのご教化をお助けする行為である。というものでした。

 みなさんも、今こうやって仏事をつとめ、お寺にお参りされたりするのは、何故でしょうか?そこには、自分自身をそういう気にさせてくださった、ある方の「読経」のすがたと、そのすがたを通して伝わる、阿弥陀さまの尊いお慈悲のお働きがあったからではないでしょうか?

 どうしても、現在の私達は、お経は読むことよりも、内容を理解することを大事にしようとします。もちろん内容を理解することはひとつの楽しみではありますが、「読む」という行為そのものが実は宗教的に大切であり、尊い行為なのです。

 「読経」とは仏教徒にとって最も基本であり、そして大切な行為なのです。少しイメージしてください。たった一言で人を傷つけたりする、ろくでもないこの私の口から、お釈迦さまの「金口の説法」がこぼれるひとときを、いま私達はさせていただく身に成りました。わたしの心に阿弥陀さまのお慈悲の光が満ちていくと共に、そのすがたを通して、周りの人にもお慈悲の光が届いています。それが「読経」のある人生です。

 「永代経法要」は、このかけがえのない読経のご縁を喜ぶ要です。ご法話をよろこぶと共に、読経そのものが喜びです。みなさんで一緒に「読経」させていただきましょう。