「仏法を聞く事のいみ 〜信心をいただく〜」 今月の住職法話

6月から8月は、勝圓寺は「安居月間」と言って、つとめて仏様のお話を聞くようにお互いに励まし合うことをしております。住職も含めてそうですが、私達は仏法を聞く事を大切とは思いつつ、なかなか「お聴聞を第1に生活を組み立てています」とは成りにくいものです。ついつい後回しにしてしまいますから、せめてこの3か月だけは、すこしお寺参りの優先順序を上げてください。

浄土真宗というのは阿弥陀如来という仏様にお救い頂く宗教です。

阿弥陀如来は私達を救うのに異次元ではたらいておられるわけではありません。「なもあみだぶつ」となって私達にはたらきを現してくださっています。如来様ははっきりと私の前に現れてくださっているのです。

 しかし「なもあみだぶつ」という言葉やお念仏する声だけでは、そのようになってくださった如来様のぬくもりのようなもの、すなわちはたらきを感じていくことは出来ません。このぬくもりを感じることが宗教的よろこびであり生きる力となるものといえるのですが、その方法こそが、法を聞くということであり、その如来様のぬくもりを知ることが「信心をいただく」ともいうのです。

 ちょっとややこしかったですが整理すると、「阿弥陀如来の仏法を聞き」「阿弥陀如来のぬくもりを知る」「信心をいただく」「私の救い」とこの4つは別々におこってくるものでは無く同時に成立するのです。同じ事を視点を変えて述べているともいえるでしょう。

 あえて例え話をします。赤ちゃんを産んだお母さんは赤ちゃんの為に母乳を作ります。つまり栄養のあるものを好き嫌いを抜きに食べ、健康に一人の時以上に気をつけます。これは赤ちゃんを育てるためであり、赤ちゃんから見たら自分を救うはたらきです。しかし実際に母乳は赤ちゃんの口に入らないと救いは完成しません。ですから次にお母さんは赤ちゃんを胸元に抱きかかえます。さらに母乳を赤ちゃんに飲ませながら同時にぬくもりや優しさも伝えていくのです。

 実際はここで救いは成立しています。赤ちゃんも無意識ですが安心をお母さんからもらいます。これが「信心をいただく」初めです。でもお母さんの母乳を作る苦労や、赤ちゃんのために夜中でも寝ずに赤ちゃんを抱きかかえ、寒い冬でも胸をはだけさせて母乳を与えてくださった赤ちゃん一筋のはたらきは、やがて赤ちゃんは色々なところから情報を聞いてようやく実感することになります。物心がつき母の苦労が嬉しく感じるときが増えてきます。それは「仏法を聞き阿弥陀如来のぬくもりを知る」ことといえます。

 仏法を聞くこととは、この様に「なもあみだぶつ」とお念仏の心を聞いていくことです。そして宗教的よろこびを深めていくことなのです。それはもちろん、聞く事の無かった人生より素晴らしいものである事は明確では無いでしょうか。ぜひ今月も法をお聞きください。