住職法話「祈らない唯一の宗教が目指すもの」

猛暑がはじまりましたね。これほどにまで暑いと色々な不安を感じます。実は宗教界でもコロナ・ウクライナ情勢・そして異常気象が重なりそれらにおける人々の不安を解消しようと、各宗派が「祈祷」をしています。有名なのは一昨年に東大寺にて始まった「正午の祈り」は宗教を超えて賛同者を得ています。かつて大仏が建立されたころにも、社会不安があり、時の聖武天皇はその平穏を願って大仏の建立を命じたことにちなんだとのことでした。

 さて今回この祈りの呼びかけに浄土真宗は参加していません。それは浄土真宗本願寺派は「現世祈祷を必要としない」と宗制宗範に示されるように「祈り」のない世界で唯一の宗教であるからです。

 浄土真宗がこのように宗派の基本理念とする出来事が、聖人の関東時代(40〜60歳)のエピソードにあります。それは聖人42歳(1214年)のときです。越後から常陸に向かわれる途中の上野国佐貫ということころで、人々が飢饉のために苦しんでいるのを知り、聖人は1人堂にこもって『浄土三部経』千回読誦を始められたということです。これは聖人は若いころ比叡山でご修行されていましたから、その習慣で何気なくとられた行為でした。ところがしばらくして読経を止められます。そして「念仏者とは称名念仏の他にするべき事は無く。ひとりでも多くの人にこの念仏の教えを伝えることこそが、本当に人々と幸福を分かち合えることになる。」といわれ、お堂を出られたのです。

 親鸞聖人はこのとき何を感じられたのでしょうか?「他力法に出会いながらも、まだまだ自力執心の自己を思い知った」といわれますが、もう少し平たく考えると目の前の病や苦悩を治すだけでは本当の幸せは永遠に来ない。むしろこのまま苦悩のままの人生が喜びと転ぜられるのは、念仏を通して阿弥陀様のお慈悲に出会うことが必要と思われたのでしょう。例えていうと、病が治る事が救いであるなら、治らない病の人には救いはないのでしょうか?もちろん阿弥陀様の救いは違います。病の人も健康な人も、そのいのちはお悟りの身となるべき輝きを与えられます。

 この宗祖親鸞聖人の姿勢を大切にし、「祈る」のではなく、本当に今何をすべきなのかを、阿弥陀様は私がどんな状況にあろうとも必ず寄り添いこのいのちを仏と仕上げようとはたらいてくださっているという、お慈悲に照らして考える視点をもつのが、私達浄土真宗の寺院・門徒の立場なのです。場合によってはこれは祈るよりも大変なことかもしれません。だからこそ阿弥陀様のお慈悲を聞くことが大切だと思います。そこから肩肘張らず「お慈悲を苦しみの中にある人と共に喜ぼう」という新しい価値観が生まれるからです。

 そして特に僧侶で無くても人々を幸せにする力は我々には沢山残っています。余命数ヶ月の人が微笑むと元気な人が笑うよりも数倍、周囲を明るくします。病の人には病の人だからこそ出来る事があります。仏教でありながら「祈り」より前に何をすべきかを教えてくれる仏法こそ、浄土真宗の教えです。いまこそ仏様のお話をお聞きください。