住職法話「死の解決を聞く」

 

1985年8月12日いまも記憶に残る日航機墜落事故がありました。今年も慰霊登山の報告が新聞に載っていましたがちょっと考えさせられる記事がありました。この8月12日を毎年特別な気持ちでむかえている一人の男性の話です。

 当時この男性は羽田空港で大阪伊丹行き飛行機のキャンセル待ちをしていました。やがて事故を起こす日航123便にもキャンセルが出たそうです。気の早いその男性は公衆電話で家にその飛行機に乗って帰ると連絡をして列に並びます。ところが自分の1人前で余ったチケットが無くなり、結局その飛行機に乗れなくなりました。随分と地上係員とも交渉をしたそうですがどうしても123便には乗れませんでした。結局別の全日空機にキャンセルが出て男性は大阪に帰ることが出来ました。家に到着すると人だかりが出来ています。ただいまと声を掛けると家族がビックリした顔をしながらやがて涙を流してよかったよかったと言われたそうです。その時初めて搭乗すると家に伝えていた日航123便が消息を絶ち墜落事故を起こしたらしいことを知りました。それで皆が心配をして家に集まっていたのです。

 この男性はやがて、もしあの飛行機に乗っていたらと思うと共に、犠牲になった方々のことは他人事ではないと思うようになりました。毎年この8月12日には生かされている意味をかみしめておられます。

 この新聞記事をみてあらためて私達はいま生きていることの意味や死んでいくことを真剣に考える時間をどれ程もっているのか?と思わされました。特に仏法を聞くということは嫌でも「このいのちは死と隣り合わせである」ことを聞かされます。すると必ず「人は必ず死ぬのだから、そんな話よりもいまを楽しく生きる話を聞きたい」という声が上がる。でもそんなことを言えることこそたまたまなのでは無いでしょうか。大切な人が死んだとき、いや、死ぬと聞かされたときに「いまを楽しく生きる話」はどれ程の役に立つと言うのでしょうか?

 浄土真宗は死んでいくいのちをいま真剣に考えその解決がいまあることを教えてくださる宗教です。ぜひせめてお寺参りの時だけでも「死んでいくいのち」を考えてください。