住職法話「西方極楽浄土について」

浄土真宗の阿弥陀様のお国である「西方極楽浄土」についてお話しします。

「浄土」と「天国」の違いとは?

「浄土」は「清浄仏国土」といい仏様の国です。さらに阿弥陀様の浄土は「無量光明土」といわれます。「光明」とは人々の「苦悩の闇」を打ち破る働きで、それが「無量」ですから、限界が無いことを表しています。太陽の働きに喩えられるように、浄土から離れたところにいる私にもその働きは無量ですから、いつでもどこでも届いています。つまり阿弥陀様の「浄土」はただの国土という場所では無く、阿弥陀様の私達を救う働きの源を表しているのです。もう少し踏み込んで言うと、その浄土の働きが私の上では「南無阿弥陀仏」と届いています。

 対して「天国」は、そこに暮らすものにとって理想的な世界のことを言います。行けたら良いなと思える場所で希望の場所といえます。ただし余計なお世話かも知れませんが、仏教では欲望を満たす世界で、目指すべき世界では無いと教えます。

「極楽」とは?

「楽」には色々な意味があります。例えば気楽の楽、音楽の楽、楽園の楽、等々で「ラクをする」・「かなでる」・「たのしむ」と意味も変わります。

 いま「極楽」の楽は、「たのしむ」という意味が近いといえます。ただし私達が欲望で求める楽しみとは違います。何故ならそれは一時の快楽は有っても最後は苦しみへと変わるからです。では「極楽」の楽しみとはどんなものでしょう?例えば「極楽に生まれたらすぐに娑婆世界に帰って、有縁を遊ぶがごとくに真実に導く」とお経にあります。ある和上様が「遊ぶというのがいいねぇ、我々は親子でも思うように助けることが出来ず涙を流すような人生を送っている。阿弥陀様はそんな私を放っておけなかったんだね」と教えてくださいました。

「西方」である深いわけ!

 場所を示されることで、浄土が単なるはたらきだけにとどまらず、人間が具体的にイメージすることが出来るようになります。さらに私達は目指すべき生き方まで感じます。「懐かしいあの人と再会出来る場所がある」「死んでも楽しみに出来る場所がある」「先に生まれて待っていることの出来る場所がある」ということです。

 もう少し言い換えたら、「人間など死んだらおしまい」と思っていた人が、「死の先にも楽しみがある」「また会える世界がある」という具体的な感情を与えてくださるのが、「西方」なのです。 このように、「西方極楽浄土」とは阿弥陀様の私への優しい思いのつまった場所であり、お慈悲のはたらきそのものなのです。