住職法話「救いと時間について」
新年度が始まって早くも3ヶ月が経ちました。会社、学校、地域、どこも新鮮な空気感がなんともいえない季節です。ながらく勝圓寺とお付き合いの方も、最近勝圓寺とお付き合いが始まった方も、今年も勝圓寺にて充実した時間をお過ごしいただきたいと願っています。お寺を絡めての人生の時間は、皆さんにとって貴重な時間です。少しこのお寺での時間についてお話ししましょう。
勝圓寺では「法を聞く」聞法の時間を大切にしています。仏様を拝見すること、合掌をすることは、もちろん大切なことですが、「法を聞く」ことによって、私達ははじめて宗教的「救い」を味わいます。宗教的な「救い」については現代人は「非科学的だ」と馬鹿にされる方も多く見られます。しかし私達の人生の問題は、多くが「科学」では解決出来ないものです。この点について、宗教ではよく2種類の時間の喩が語られます。1つは「科学的な時間」で、これは私達が予定を立てたりするもので機械的に刻まれる時間であり、みんなに平等に与えられた時間です。もうひとつは私達個人の心の時間です。感じる長さも、その重みも千差万別です。また時代や人生の中で変化する時間です。宗教はこの二つ目の時間の世界で大切な役割を持ちます。
山本仏骨和上という方がこんな言葉を残されています。「過去は閉ざされた世界。一見変わることの無い世界である。しかし、今何を聞くかで、その意味合いは大きく変わるのです」と。
この人生の意味合いや価値を変えることが出来るのが、法であり、その出会いが「救い」です。
仏法はよく「難しい」と言われます。それは言葉が難しいのでは無く、その時の私に実感が沸かないという意味でしょう。それはそうかもしれません。
あるお寺に突然ひとりの男性が来られました。その男性のお母さんは熱心な念仏者でいつもご法座の後には息子に電話をかけて「私は死ぬんじゃ無い浄土に生まれるんだ」と言っていたと言います。息子はそんな母に「お母さんこの科学の時代に、そんな宗教くさいことを言うと、笑われますよ」と返事をしていたといいます。ところが息子は末期の癌になります。その知らせを聞いた時も母は「私は死ぬんじゃ無い浄土に生まれるんだ」と答えたと言います。そして「あんたもお寺で阿弥陀さまのお慈悲を聞きなさい」といってお寺参りに息子を誘います。そしてようやく息子さんはお寺に来ました。そしてご住職にこう言われたそうです。「浄土真宗は気付かされる世界なのですね」と。この時この男性は、これまでと全く違う時間を得たといえるでしょう。
親鸞聖人は救いの定まることを時にたとえて「信一念」と言われます。そしてその事を「信楽開発の時剋の極促」「広大難思の慶心を彰す」と釈されています。信心をいただき、阿弥陀さまのお慈悲を「気づかされる」時とは、私には一瞬でも背後には大きな大きな時間でありはたらきが存在しています。例えばお経では、阿弥陀さまが私の「南無阿弥陀仏のお念仏の仏様となる時間を「五劫思惟」「永劫の修行」とお示しです。そしてこの男性で言うなら、馬鹿にされても語り続けたお母さんの息子を思う気持ち。そしてお母さんも息子さんも包む大きな阿弥陀さまのお慈悲でもあります。同時に男性の「気づかされた世界」は想像を超えた「広大」な喜びの世界です。山本和上の言葉をかりれば、「人生の意味合いが大きく変わる」時間です。それが「信一念」です。
どうか皆さんも勝圓寺で「聞法」をして自分だけの特別な時間である「信一念」を存分にお味わいください。