「お仏壇のある生活はやはり必要では?」 今月の住職法話

昨今では、仏壇があるお家が貴重な存在となってきました。住職はうっすらと、そんなことが最近の社会や人々の「こころ」の寂しさを現しているのではないかと感じています。もちろんすでにお仏壇のある家でも、お仏壇は眺めるものや骨董品となっていては同じことです。それでは浄土真宗のお仏壇の意味とはなんなのでしょうか?

仏様のお育てに会う場所

「仏様のお育て」とは何でしょうか。お仏壇には「帰命尽十方無碍光如来」と右側の掛け軸が成っています。(親鸞聖人の絵像の仏壇もあります)この言葉こそ「お育て」です。意味は「我にまかせよ!逃げ場もかくれ場も無く、必ず汝の身にこの上ない徳を満ち満ちていくでしょう」と言うことで、お仏壇の前に座る人には阿弥陀様のお徳がそのように届いていますよと言うことなのです。今は阿弥陀様の徳が満ち満ちてるといってもピンとこないかもしれません。言い方を変えると、阿弥陀様のお徳が届いたからお仏壇の前に私は座る人となったということなのです。

役に立たない私の物差し

私達は勉強や経験から学んだことで自分の物差しを持っていきています。一方で人生には私の物差しでは理解できないことが突然起こります。その時これまで支えてきた価値観が崩れますから、それは「不安・絶望・孤独」を伴います。その時にこそ、お仏壇を通して、阿弥陀様の方が私のところに届いてくださっているという「仏様のお育て」に出会ったいた人とそうでない人との違いがあるではないでしょうか。

宗教心は深まるほどありがたい

お仏壇の前に座る頻度が増えると、木像や絵像の阿弥陀様と声に出さずとも心の中で会話が出来るようになります。お仏壇の前でなくても本当は阿弥陀様は私のところに届いてくださっています。しかし智慧浅い我々はそれを具体的に実感できる場所が必要であったのです。そこで私の内にある阿弥陀様を取り出して手を拝むようにしたのが木像・絵像のお仏壇の阿弥陀様です。ですから心の中の阿弥陀様に語りかけるようにお仏壇の阿弥陀様に話をしてください。「今日はこんな辛いことがありました」「こんないやなこともありました」と愚痴ばかりでも良いのです。私が愚か者であることは百もご承知で阿弥陀様は私に届いてくださっているから安心してください。

 誰にも言えない苦しみや悲しみを私達は抱えて生活しています。だからだまって涙を流せる場所も必要です。それがお仏壇なのです。