勝圓寺のあゆみと願い
勝圓寺の願い〜お寺でのご縁を通して〜
第一はお念仏の相続
勝圓寺が開基以来、浄土真宗のお寺として存在してきた意義は、南無阿弥陀仏(ナモアミダブツ)のお念仏をお伝えしてきたことに他なりません。
ひとつ思うことは、現代は科学思考の時代といえます。当然、お念仏に対して、非現実的ではないかという疑問を多くの方が持たれることが予想されます。ところが実はいまこそ、お念仏が求められると思うのです。科学では解決できない問題に現代人は苦しんでいます。であるのに、さらに科学に頼ろうともがいているのですが、それもそろそろ限界に来ています。
浄土真宗は阿弥陀如来の宗教であり南無阿弥陀仏のお念仏の教えです。それは「夕日の沈む西方をなつかしむ」「死んだらお浄土に生まれ、先に死んだ方に会うことを楽しみに出来る」という宗教です。この非科学的な事を、非科学的と知ったうえでお釈迦様は、お念仏とそこにこめられた阿弥陀如来のお慈悲を伝えることこそ出世の本懐といわれました。私たちが科学に溺れ苦しむことをご存知であったからです。勝圓寺がそのお念仏の教えを聞く事の出来る場所です。
大乗精神にあふれたお寺
勝圓寺は15年程前に、組織改革を実行し「お念仏をよりどころとする人々にいつでも開かれたお寺」を目指しています。お寺の母体である門信徒会では大乗仏教の精神で様々な催しを行っています。それは「阿弥陀様はいまどのようにお念仏をお勧めなのか?私はどんなお手伝いが出来るのか」という視点で、住職も門信徒も一緒に考え行動していくお寺を目指しています。
「お念仏の相続」と「大乗精神のお寺」の為に、精一杯つとめますので、みなさまにはどうぞこれからも、よろしくお世話になります。
勝圓寺の歴史
寺院建立の契機
勝圓寺は寛永21(西暦1644)年、法華宗の日護師により大法寺として建立された。しかし寺運は衰微し万治2(1659)年法玄師は、本願寺門徒に寺を譲り了意という人が住んでいたというが、あまり盛んとならず廃寺のようになり長尾陣屋の代官深川氏の隠居所となっていた。そのころ隣村の藤坂西法寺に客僧として本願寺の僧松廓が来ていた。この人は紀州加茂郡湊村勝廣寺の出身といわれるが、京都に出て仏学を深く修めていたので、時の正俊寺和尚がその才幹の常ならぬを見て、代官に掛け合い、この隠居所に松廓師をむかえ道場を開いた。寛文12(1672)年のことであり、この年を開基としている。当時真宗寺院が福岡村(昔の長尾)になかったので移入して来た真宗門徒が集まり檀家数21軒門徒95人の本願寺末寺となり第2代松貞師の貞享4(1687)年に寺号を「勝圓寺」となった。
3代目松翁師は学僧として記録に残る。今は廃寺となったがかつて長尾に在った太子軒という庵の禅僧是濬と親交が深く互いに詩文を送りあい今でも長尾内の民家の襖や額に書き付けた物が残っている。
寺院建物等の記録
まず最も古い寺社取調書(元禄5年)には、開基当時の本堂が梁行3間桁行6間と随分細長い藁葺き屋根の建物とある。
その後当寺所蔵の棟札には2代松貞師が宝永7(1710)年に第1回本堂再建がされている。そして天明2(1782)年に第2回本堂再建がされ平成19年の現本堂再建までの6間四面の本堂となった。ところでこの時に大阪奉行所に本堂許可を長尾村勝圓寺と届けたところ、長尾村が不明と奉行所が返事をして、貞享3年の村名変更を96年後にようやく奉行所が知ったという記録がある。さて整備を重ねながらも現在の庫裏は文政8(1825)年に、山門は天保14(1843)年に再建されている。さて、確かな記録は現存しないが、境内地には池の畔に庵があり漢詩の会などが開催されていた。また土俵も庭にあり力士を呼んで余興を楽しんだという。
第10代住職以降
第10代松壽師は全国に布教活動をされていた活発な方であったという。第11代教了師は住職をしながら教職に就き、いまでも教え子であったという方にお会いすると長身の厳しい人柄であったと聞くし、自身に実子が無かったからか、必ずお寺に使いで行くと菓子などお土産を渡すこどもに優しい人柄であったと聞く。第12代靖賢師は大谷派の高槻皆念寺から入寺され、京都西本願寺・大谷本廟・角坊別院輪番など宗務員として宗派に宮仕えされ、一方で境内墓地の整備、平成の本堂大修復等を成し遂げている。
第十一代教了師
第十二代靖賢師
勝圓寺は街道沿いの好立地に恵まれ、比較的豊かな在所と共に今に至っている。しかしだからこそ様々な時代や社会の影響を受けやすかったのではないだろうか。にもかかわらず、念仏第一を開基以来ご相続していることを、重く受けとめるのである。長い歴史の中で、歴代の住職寺族関係者、代々にわたるご門徒方ほか沢山の方の尊いお陰様を痛感せざるを得ない。