仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・読経が続きますように

各地で春から初夏にかけては『永代経法要』がつとめられます。「永代にこの地で読経が続くこと」を願ってつとめする法要です。

 いまの世相は、読経そのものへの重要性が薄れてきたと感じます。実際に住職も、葬儀の時等に「出棺のセレモニーに力を入れたいので、読経時間を短くして欲しい」と葬儀社から要望をいただいたこともあります。しかも、経典には現代語訳が出版されたりしていますが、読経する場合は常に原文をしかも音読みで発声します。こういう行為自体に対しても「何の意味があるのか?」と疑問の声をよく聞きます。そういう空気に流されている現代人には、「読経が続く」事を願うという意味は、理解が難しいのかもしれません。

 もちろん言葉が難しいから読経そのものが無意味だというのは大きな勘違いですが、しかし意味も想像すら出来ないことを長時間する事はつらいことであるということは理解できます。それでは読経とはどんな意味があって、私達の先輩は大切にされてきたのでしょう。

 これには旧来から2つの意味があるといわれます。それは「仏徳讃嘆」と「報恩の意」です。簡単にいうと、「このお経は素晴らしいですよ」としっかりと読経という姿勢で示すことが、自分自身だけで無く、まだ仏様を知らない沢山の人を幸せにすることに繋がると言うことです。

 では、具体的にどう心がけておけば読経を大切にすることが出来るのでしょうか。

 ひとつ目は「いまお経に出会えたことが素晴らしい」ということに気づくことです。私達が仏様に出会うことは千差万別です。でも出会いをもたらした根源は、ひとつなのです。私達は自分の愚かさ故に苦悩し涙する凡夫ですが、この凡夫を「自業自得だ」と切り捨てるのでは無く、捨てておけないと涙を流してくださった阿弥陀様の、凡夫を幸せにしたいという願いこそが、出会いをもたらした根源です。

 その仏様のお心が経文ですから、実は人間の解釈を加えたものより、阿弥陀仏という仏様が私を思ってくださるそのお心のままは、読経によってこそ心に染み渡ります。

 もうひとつは法話を聞くご縁をなるべくつくるということです。経文に現れた阿弥陀様のお心は、法話を聞くことでしか出会うことが出来ないからです。法を聞くと、読経という行為そのものを、この人生ですることが出来たことが、とても尊いことであったと分かります。そしてその喜びの中で読経をするから、その私の行為そのものが尊く、また人々を幸せにしていくのです。

 だから「読経が続く」ことを願う

『永代経法要』は尊い事なのです。