仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・親鸞聖人誕生850年と立教開宗800年と私

5月21日は宗祖親鸞聖人のお誕生日です。親鸞様は承安3年・1173年のお生まれですから、ちょうど今年は850年の記念すべき年です。そこで現在西本願寺では慶讃法要がおつとまりになり、勝圓寺でも去る3月21日に法要をおつとめさせていただきました。毎年西本願寺では5月21日に「降誕会」(ごうたんえ)という法会をおつとめされますが、50年毎にこの様に盛大な慶讃法要がおつとめされるのです。

 さて、私達にとって親鸞聖人がご誕生された意味とは、どの様にとらえさせていただくべきなのかを、ちょっと考えてみました。

 ある西洋の哲学者は宗教改革とはルターのプロテスタントと日本において法然・親鸞が起こした浄土教の独立であると、いいました。

 これはどういうことを言われているかというと。法然聖人と親鸞聖人は、「私が悟りを目指す仏道」から、「阿弥陀様が私を救う仏道」を仏教史上初めて明らかに示してくださいました。さらに現在では当然ですが、「老若男女貴賤を選ばず、さらには聖者俗人を選ばない」という救いの概念まで、初めて明らかにされたのです。この絶対平等の救いを親鸞様は「阿弥陀如来の大悲の必然」といわれました。

 「如来様であるからその慈悲は差別が無く全ての人々い行き渡るのが当然だ。」ということです。ちょっとビックリしますが、それまでどんな高僧も、誰もそこまで言い切る人はいませんでした。人というのは生まれながらに違いがあります。だから救われていく世界も、生き方によって違いがあって当然だというのが、それまでの常識でした。

 しかし親鸞様は「7人のこどもがいたとして、親はどの子にも平等に接するが、病を患った子がいたらまずその子に力を注ぎます。同じように煩悩という欲の毒によって病を患った私にこそ、如来様は大きな慈悲を注いでくださるのです。」と言われ、まさに阿弥陀様のお慈悲からすれば煩悩まみれの凡夫こそが正しき救いの目当てであるとまで言いきられています。そして結局は阿弥陀様はどんな生き様をしてきた人でも、ひとしくお浄土へ連れて行き、そこでさとりの身に仕上げてくださると、いわれました。

 この仏様という存在の価値観はいまの社会では受け入れられますが、当時は全く受け入れられませんでした。それでも、親鸞様やその師匠の法然様の元には、それまでお寺の門をくぐることも許されなかった様な人まで、沢山の人が連日訪れたといいます。

 親鸞様の誕生とは私達のいまの平等の権利を主張できる社会を築く事となったとも言えるのです!

されに、来年はこの阿弥陀様の願いをあきらかにしようと、『顕浄土真実教行証文類』を著されて800年となります。いまこの年を浄土真宗の立教開宗の年としていますが、私は立教開宗は毎年毎年であるといただいています。

 なぜならば、「老若男女貴賤を選ばず、さらには聖者俗人を選ばない」「阿弥陀様はどんな生き様をしてきた人でも、ひとしくお浄土へ連れて行き、そこでさとりの身に仕上げてくださる」という親鸞様の教えを基に、「平等の権利を主張できる社会を築く」という視点こそが、立教開宗の意義であるからです。すなわち阿弥陀様の願いを讃嘆し続け、阿弥陀様のおこころに催されて開かれた宗教的喜びを、現実生活の上で実践していく事が出来るのだということこそ、親鸞聖人がわざわざ法然聖人の教えをかみ砕いて『顕浄土真実教行証文類』を著されたおこころであるからです。

 浄土真宗という教えに遇いがたくして出遇うことの出来た私達には、この実践の場が目の前にあります。