仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・「学仏大悲心」いま私たちに必要なこと

先日「京アニ放火殺人事件」の判決がありました。

それにしても昨年も凶悪な事件が続きました。強盗に殺人と、あちこちで、日本はいつからこんな国になったのか?等という声を聞きます。確かに荒っぽい事件が増えたように思います。

 さて、浄土真宗の宗祖親鸞様は「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまひもすべし」(人は誰でも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いでもするのである)と言われています。すなわち、どんな凶悪なことも私はする素質を持っているのだと、言われているのです。

 この言葉の裏には、人の善悪など何も当てになどならない、人は煩悩を死ぬまで抱えて生きていかざるをえない、自分はとても恐ろしい存在であるとの自覚があります。これは、仏教に出会うことによって、見えてくる自分の本当の姿です。

 確かに、我々はどこまでも自分中心にしか価値判断が出来ません。他人のために善い行いをしようという思いも、「してやった」という心が必ず付きます。幸せを感じるときも、他人と比較して自分が少し上と思えるときです。また上手くいかないことが続くと、それを他人の責任に考えたりもしないでしょうか?

 仏教に出会うと言うことは、そういう自分の恐ろしさに気付かされる事でもあります。さらに仏教はそれだけで終わりません。その恐ろしい自分に向けられた、仏様の心にも出会うのが仏教です。

 浄土真宗の仏様である阿弥陀様は、そんな恐ろしい私の存在に腹を立て怒りをいだき罰を与える、そんな仏様ではありませんでした。逆に阿弥陀様はそんな私をご存知になって、涙を流してくださいます。それは今は気付いていなくても、やがて私はその恐ろしい私に涙を流していくということをご存じだからです。そのことに気づかれた阿弥陀様は、私を放っておくことが出来なかった仏様でもあるのです。

 善いことをしように、もうそんな心の余裕が無くなり、他人を恨み嫉む、そしてそんな自分の邪魔をする人を殺めてしまいたいとまで思ってしまう自分に出会ったとき、誰でもその自分の恐ろしさに、涙を流すのでは無いでしょうか。しかもその自分のことは誰にも話すことさえ出来ない自分では無いでしょうか。

 阿弥陀様はそんな私の姿に涙を流してくださるのです。恐ろしい事を考え、行動する自分を知らされ、どれだけ孤独感を感じても、共に涙を流してくださる方が阿弥陀様です。そのお心を「大悲心」といいます。その為に「南無阿弥陀仏」と私の声とも成ってくださるのです。それは「貴方は1人では無い」とのよび声なのです。仏教を聞くことを「学仏大悲心」と言います。

 みなさんも孤独感に襲われたとき、お寺で仏法を聞いて、阿弥陀様の大悲心に出会ってください。