仏事・参拝・住職コラム(法話)

・浄土真宗は「悪人」でよかったと思う宗教です
最近は寛容ということが少なくなっていると感じます。何故でしょう?
学歴詐称にせよ、不倫にせよ、賄賂にせよ、新しいお札の顔の人も、かつての天下人豊臣秀吉なんかは全部やってます。それでも特に関西では未だに大人気の歴史上の人物です。
確かにルール違反はよくないことですが、みんなで一斉にそれを責め立てるのは、見ていて気分が悪いです。
どこかで自分は善人であると思い、少しでも悪いことをする人を、激しく責め立てるのですが、正直それは普段ご自身が我慢しているストレスを、そこで発散しているかのようです。
親鸞聖人は『正信偈』に「邪見驕慢悪衆生」は阿弥陀様のお慈悲を受け入れ無いから救われないと言われます。自分中心なものの見方が「邪見」で、おごり高ぶり他人を馬鹿にしたがるのが「驕慢」の心です。
有名な『歎異抄』の言葉で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人が往生できるのだから悪人が往生できないはずがない)とあります。ここで言われる「善人」「悪人」は実際に善いことをする人・悪いことをする人という単純な意味ではありません。親鸞さまが「善人」というのは、自分で自分は善人だと思っている人。「悪人」は自分で自分を悪人と思っている人です。
ちょっと想像してください。母親は客人に出した湯飲みを玄関に置き忘れました。そこに学校から帰った子どもが気付かず蹴り飛ばして、湯飲みが割れます。「善人」の家庭ではこうなります。
母「ちょっと湯飲み割れたじゃない!」、子「誰がこんなところに湯飲みを置きっぱなしにしたんだよ!」、
母「あんたはいつも不注意なのよ」、子「なんでだよお母さんこそいっつもあちこちに物を置きっぱなしだろ」と永遠にお互いのミスを責め続けます。
対して「悪人」の家庭では、
子「うわー割っちゃったよ!どうしよう!大事なお茶碗だよね」、母「あら!お母さんまた湯飲みを片づけるの忘れてたわ」、
子「いや僕はいつも、遊びに行きたくて、慌てて下を見ずに走るんだ。だからごめんねお母さん」、母「違うのよお母さんが忘れっぽいからこうなったの、おまえ足は切れてないかい?大丈夫かい?」と。
いかがですか?自分は誰よりも苦労している頑張っていると考える「善人」と、自分はすぐ人に迷惑をかける愚か者だと考える「悪人」です。どちらの方が、優しい社会を築くことが出来そうなのかは、一目瞭然ですね。
ところでこの「悪人」になるには自分自身の努力では無理なのです。仏様のお心に出会った人が「悪人」に自然となるのです。