仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・浄土真宗の生きる意味とは〜映画「国宝」のクライマックス〜

浄土真宗は大きな仏教の世界で言うと浄土教という枠組みの中にあります。

「厭離穢土欣求浄土」(オンリエドゴングジョウド)と徳川家康の旗印となったこの言葉は、日本浄土教の祖である源信和尚の言葉です。穢土と言われる苦しみ絶えないこの世を厭い離れて、極楽浄土を願い求めると言うのが浄土教各宗派共通のスタイルと言えます。それでも親鸞様はその娑婆世界をお念仏と共に自信を持って生き抜かれる道を歩まれました。

 親鸞さまは浄土真宗の現世利益は「現生正定聚」(ゲンショウショウジョウジュ)と示されます。「正定聚」(ショウジョウジュ)というのは、将来サトリを開くことに間違いない身ということです。それが臨終を待つまでも無く今この時点でいただけるご利益と言われたのです。これは現世を厭う事を常識とする浄土教の中では、極めて前向きな姿勢です。

 さて具体的にはどういう味わいでしょうか。「正定聚」の位とは大乗仏教では、自分の修行の成就に留まらず、有縁の方々を自在に仏道に導くことも出来るという、相当高位の菩薩です。でもそんな高位の菩薩行が私達のような罪悪深重の凡夫に出来るということはありません。しかし罪悪深重の私がお念仏をしながら阿弥陀様のお慈悲を尊ぶ姿勢から、全くそれまで阿弥陀様のお慈悲やお念仏に無縁であった方に、お慈悲が伝わっていくという、そんな利他的なことがかなうご利益であると親鸞様は喜ばれたのです。

 人間は生きる意味を考える動物と言われます。逆に生きる意味を失った時、精神的な死を迎えます。仕事・子育て、やがてそれらが終わる時、ふと生きる意味を失うという不安があります。  オーストラリア人のフランクルという心理学者は「人はいつでも他人に影響を与え続けている。そこに生きる意味を見た人は、喜びの人生を送ることが出来る」と言われます。

 去年流行った映画「国宝」をご覧になった方は多いでしょう。クライマックスに人間国宝となった主人公が演じる舞台。舞い散る雪の中で「綺麗や〜」と呟ます。それは幼少期に父親が雪の降る中で、血まみれになりながら息子に微笑みながら死んでいった姿を、思い出させました。父親はヤクザの闘争で殺されるのですが、見守る息子に父として生きた姿を目に焼き付けようとする最後でした。死が迫る中で父としての生きた意味を子に与えることに喜びを感じているように思いました。そして歌舞伎の舞台で主人公も、父と同じ喜びを感じているようでした。

 私達も息絶え絶えの中でもし「南無阿弥陀仏」と念仏申すなら、その姿は見守る人に阿弥陀様のお慈悲を伝えるのでしょう。その時こそ、私が念仏者として生きた値打ちがあるのです。