仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・愚か者の私でよかった(浄土真宗という宗教の特徴)

 お寺でお話しを何度か聞く人は知らず知らずに抵抗感が薄れているかも知れませんが、浄土真宗では自分自身の事を「罪悪深重の凡夫」と考えています。どんな人かというと「銀行強盗をして人殺しもしたのに、全く罪の意識が無い者」くらいの存在です。そこまで思っていないつもりでも、お寺では自分の「愚かさ」「残虐さ」を受け入れ時にはその姿を笑い飛ばして、布教使さんの話を聞いています。そして、阿弥陀様がそんなどうしようもない私を助けてくださることを、「有り難い」と喜んでお話しが終わるのです。

 無意識のうちに、お寺で一度でも阿弥陀様のお話しを聞いた人は、自分自身の脳に「新しいシワ」が出来ているのです。それは「自分は愚か者である」「いつ人1人を殺すかわからない」というシワです。

 これはとても素晴らしいことです。なぜなら、そいうシワが出来た人は、新聞やテレビから流れる色々残虐なニュースを見たり聞いたりしても、少し受け取りが違います。「ひどい事件だな。でも犯人にはどんな苦悩があったのだろうか?」とか「被害者の人はきっと犯人を許さないだろうな。でもその自分に気づいたときもっと苦しい思いをするだろうな?」等々、自分は危うい存在であることを知るが故の人間観では無いでしょうか。

 それは何も後ろ向きなものの見方ではないのです。それは、どんな罪深い人にでも「阿弥陀様のお慈悲」が満ち満ちていることを知っていることでもあるからです。

 私たちは必ず自分の弱さ醜さに直面します。それはとても辛いことです。どれだけ目を背けても、いやでも突きつけられるものです。その時阿弥陀様のお目当ては「罪悪深重の凡夫」であったことを思い出してください。世間がどう言おうと、いやもっと言うと他の神様や仏様が許さなくても、阿弥陀様は私の弱さ醜さを馬鹿にすることをなさいませんでした。そこにある苦悩を捨てることが出来なかったのです。そして「この阿弥陀仏があなたを助けることの出来る仏と成ってみせる」と誓いをたて、そのお徳を私の身に満ち入れて「ナモアミダブツ」とお念仏とも成って私を包んでくださいます。

 浄土真宗は強く立派な生き方をする人のための宗教ではありません。最も救いがたい私を救う阿弥陀様のお慈悲に出会える宗教なのです。