仏事・参拝・住職コラム(法話)
・阿弥陀さまのお慈悲に出会ったら恐いものなし
世間はコロナウィルスの事で随分と右往左往してきましたね。そしてお寺の周りでも、色々な意見が聞こえます。
住職としては、こういう時こそお寺の出番と思うのです。特に浄土真宗はそうではないでしょうか?なぜならば人生の不安なときこそ、解決を探す人が多いのではないでしょうか?そして比叡山というある意味で外界とは一線を引いたところから、世間の不安の真っただ中にとどまられたのが親鸞聖人でした。
不安・絶望の時こそ、もう間に合っている救いがありますよということ。阿弥陀様はあなたを助ける準備が調ってナモアミダブツとなってくださっているということを知っていただきたいです。
前住職が末期のガンで余命宣告をされたときに実感したことがありました。もう何も出来ない自分でしたが、父親にご一緒くださっている阿弥陀様がおられることを聞いておいてよかったと思いました。
さて、いのちの不安を私たちはどう受けとめたらよいのでしょうか?
親鸞さまは19歳の時に聖徳太子の磯長御廟(太子町)を参拝しました。その時に夢のお告げで余命宣告を聖徳太子から受けています。あと10年と言われました。
それから10年、比叡山でのご修行が満行となったといっても、満足いかない人生を送る自分に不安を抱き、今度は京都六角堂に籠もられます。そして救世観音となられた聖徳太子から法然様のもとに行くことを勧められました。そして、いつでもどこでも、さらにどれだけ自身が愚か者でも阿弥陀様がナモアミダブツとなって私を支えてくださっていることを教えて頂かれました。阿弥陀様はお慈悲の仏様であるから、阿弥陀さまの前で賢いふりをする必要がないことを教わるのです。
それから60年、京都では3分の2の人が亡くなっていく飢饉と疫病であったといいます。その時に親鸞さまは、不安になっているお弟子様に贈られたお手紙で、「私はどんな不様な死際となってもかまわない」と言われ、60年前に法然様からいわれた言葉をお伝えになっています。
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうえたまはり候ひしうへに、・・・
と、それはこの愚かな人生であるが、この愚か者をお許しくださり、お浄土に連れかえり仏様に仕上げてくださるという阿弥陀様にすでに出会うことの出来た人生であったから、何の不安もないことだと言い切られています。この際は愚か者で死んでいきましょう。と言い切られているように感じます。
苦しみと、未練たらたらで最期を迎えてもいいのです。その愚か者にとっても優しい阿弥陀様です。