仏事・参拝・住職コラム(法話)
・生活の中にある浄土真宗
実は貴方も仏教徒ですよ。
仏教それも日本に伝来している大乗仏教とは。
家が火事になって慌てて家を飛び出した。子どもが家に残っていることに気付く。助けに行くそれは自分1人が助かっても幸せでは無いから。
阿弥陀様はそれで私を西方極楽浄土に連れて行ってくださる。阿弥陀様自らの悟りは、私を共にお浄土へと連れて行き共に悟ることで成立するのです。
少し視点を変えると、阿弥陀様は悟りの領域という私たちの手の届かないような場所にジッとしておられるのでは無いということです。
確かに私たちは、仏様と違って自分中心の視点しか持ち合わせていないといえます。ですから慈善活動等と言っても仏様から見たらいい加減なものなのです。ですから仏様の心など全く理解が出来ないといえます。
それでも阿弥陀様という仏様は少し違います。慈悲という心が他の仏様より勝れているのです。この慈悲とはインドなどの古い言葉であるサンスクリット語では「カルナ マイトリー」といいそのまま訳すと「抜苦・与楽」となります。この苦の抜き楽を与える心が強い阿弥陀様は、仏様の方から私たちに染み込んできてくださるのです。
なんかよくわからなくなってきたかもしれませんので、私たちが日常で使う言葉などから、実はこれは阿弥陀様が作ってくださった言葉を紹介してみましょう。
・お陰さま
「最近調子はどうですか?」「お陰さまで順調です」
よくあるやり取りですが、この「おかげ」とはもともとは大阪の船場商人言葉と言う説があります。
この「かげ」とは、御堂の軒先の影だそうです。つまり御堂の軒先で商売をさせてもらっているとの感謝の言葉です。
・ありがとう
英語には「有り難う」の直訳は無いといいます。サンキューは「私は貴方に感謝する」という自分の気持ちを伝える言葉です。対して「有り難う」は「有り難し」ということです。自分の身の上に起こったことですが、そこに「私」というものが無い事を強調した言葉です。私以外のもののはたらきを尊ぶ言葉であるのです。私以外の他のはたらきを持ち上げるわけですから、そこに私がどう思うとか全く関係ないという意思を含んでいます。そして私たち仏教徒はあまり「生きている生きている」とはいいません。「生かされている」といいます。それも「このいのち有り難し」という仏教感から来ているのです。
さらに、行動や考え方の癖のようなものにも、阿弥陀様の慈悲のはたらきが染み出ているかのようなものがあります。
・相手のために何が出来るのかを考える
よく海外に行く方から聞いたのですが、外国の空港でも帰るときに航空会社の受付カウンターなどで日本人スタッフに会うとホッとするといいます。基本的な姿勢が自然に客である、相手目線に立っているからだと言っていました。それは数日であっても外国の方を相手に仕事をしていると、自己アピールを受け続けてきたために、知らず知らずと疲れていたのだと感じるそうです。相手のために自分を変えるという思想そのものが阿弥陀様のお慈悲ということを現しています。
・私の苦労話をしない
有り難うという言葉と共通するのですが、私は私以外の方々の大きな支えによっていま存在できていると感じるとき、「私がどうの」という事がとても虚しくなります。阿弥陀様は私の知らないときから私のために私を仏様に育てるためにはたらいていてくださるのです。親鸞聖人は浄土真宗ということをあきらかにされる『教行信証』というお書物に、自分自身の信仰の告白等という事をお書きになっていません。自分の素晴らしいことはもちろん、逆に愚かなることも一切語らないのです。それは私の苦労以上に阿弥陀様がご苦労くださっていることを知ったからでもあります。自然とこの阿弥陀様のお慈悲をよく聞いた人は、自分の苦労話はみっともない。阿弥陀様のご苦労話を語らせていただこう。となっていくのです。
・生き方や人の罪を語らない
ここまで来たら、さすがに少し浄土真宗マニアの領域ですが、他人に対して生き方や罪を語らないでおこうと心がけます。それは阿弥陀様のお慈悲を邪魔する行為だからです。阿弥陀様は私に生き方を示すことも無く、罪深いことも言わない仏様です。その必要なしに私に寄り添いこのいのちを輝かせてくださるのです。
でもふと思いますが、「生き方」や「罪」をわざわざ告げてくる方は、厳しい人だと思います。解っているのに出来ないことで私たちは苦しんでいるのではないですか?吉田兼好師は「徒然草」に友になりたくない人として、病を知らず身体強き人と言っています。私たちは下手な生き方をするとき、罪を犯すとき、そこには理由があります。それはとても辛い理由です。それを知っていたらわざわざ告げることは無いと思うのですが。でも気をつけないと私たちはすぐに相手の欠点を指摘したがる生き物です。
ですから、阿弥陀様のお慈悲を喜ぶ人は、少しこの真似事をされてみてはいかがでしょうか。きっとその姿は阿弥陀様から見たら幼稚なものかもしれませんが、阿弥陀様はお喜びくださいます。
そしてそのことを「御恩報謝」と先輩達は、大切にされてきたのです。