仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・悪魔を破る念仏の御利益(冥衆護持・諸仏護念)

お寺の行事を行うにあたって、感染対策を調べています。本来の目的からすると余計なことなのですが、いまネット上でも「コロナウィルス感染対策」に関わって様々な意見が出ていますから、思わず目を通してしまいます。その時にちょっと気になることを感じました。「自粛」「夜の街」、この言葉が出てくるとき必ずそこには道徳的なふりをして、他者に対する攻撃的な意見や姿勢がみえます。それは仏教で語られることのある「悪魔」(悪鬼・悪鬼神などといわれています)の存在に似ていたのです。

悪魔の存在(先輩の安方哲爾師がお話しくださったことを参考にしています)

仏教で問題となる悪魔がいます。この悪魔はどのような者かというと、道徳的な仮面を被って優しい顔であなたに近づきます。あなたのことをいつも褒め讃えてくれますから、その者を悪魔とも知らずに好きになります。ところがあるときこんなことを言い出します「あなたはとっても頑張っているのに苦労をしなければならないのは、あなたのことを理解できない○○が悪いのです」と。そうするとあなたはこの○○さんのことを疑いだし、やがてその人を恨むようになります「あいつさえいなければ」と。そしてどうやって○○を排除しようか、やっつけようかとそればかりに時間を割くようになり、気がつけばあなたは笑顔を失い醜い顔をしています。そして思い通りにならなかったときには「無駄な時間を使ってしまった」と涙を流すとこになります。そのあなたの姿を影でうかがいしめしめと笑っている者がいます。それが悪魔です。

本物の宗教観が悪魔を破る

 この悪魔は何か実体的なものでは無いことはお気づきでしょうか。そうこの悪魔とは私の中に潜む弱さに入り込み他を恨む心を増大させていく私の煩悩であるのです。敵は外にあるのでは無く、悪魔とは思い通りにならないものを思い通りにしようとする私の欲望心なのです。

 実は一番やっかいなことが道徳心です。私たちは教育の影響もあり、道徳については社会秩序維持の為に必要だとはいいますが、道徳心が強いと「私は間違っていない」といい、他者をののしる言葉しか言えなくなります。

 また一方で、自分自身を信じ目的に向かって強い気持ちを維持すること、これは自分が幸せになりたいという気持ちにもつながりますから、競争社会で幸せを勝ち取るためには、人間として自然なことで仕方ないことでは無いのか?人類の発展はそのお陰では無いのか? という意見もあります。その通りです。でもだから私たちは悩み苦しみが絶えないのです。浄土経典にも「五濁」というこの世の濁りのなかに「劫濁」といい時代が進めば進むほど濃くなる苦しみがあると言われていますが、まさにこの事では無いかと思います。

 本当の宗教観とは、この私の苦悩の事実を教えてくれるものです。そして浄土真宗の仏様の阿弥陀様は、自分自身の悪魔に苦しむ私を決して捨てないと願い、いつもあなたと一緒におりますと、南無阿弥陀仏のお念仏となってくださいました。苦悩に涙する私を笑う悪魔ではなく、共に歩んでくださるのです。この阿弥陀様のお慈悲が、悪魔を破ってくださるのです。いつも阿弥陀様がご一緒くださる人生だからです。