仏事・参拝・住職コラム(法話)
・浄土真宗に後悔は必要ありません
浄土真宗は、「阿弥陀様が私を仏に仕上げてくださる」という事を救いとする宗教です。
ところで、そもそも私たちには「仏に仕上がる」が救いであるということを理解することはとても難しいことです。こんな難しいことであるのに、浄土真宗がその知恵の力量を問うこと無く、ひろく庶民の宗教として受け継がれてきたのは、阿弥陀様の救いを学ぶとか知るという事を必要とする宗教ではないからです。では仏法を学ぶとは浄土真宗ではどう言うかというと、「黙って聞いておくだけ」なのです。「へぇ〜」と理解できなくても、聞いたということなら誰でも出来ます。
でもこの「黙って聞いておくだけ」これは重要な事です。もし私は助かるだろうか?仏様とはどんな方だろうか?と人間の物差しで思案し出すと間違った方向にいく危険性があります。それに自分のことを考えているようで、私たちはすぐ他人の人間性について評価をしたがります。しかもそれは必ず自分を中心にして評価しますから、結局は自分にとって都合良い人は善人、都合悪人は悪人という具合です。それではやがて自分を含めその人間性に善悪をつけていくと、知らず知らずに人を傷つけ自分も傷ついて、迷いの世界をさまよい続けることになるのです。
阿弥陀様はその私たちの傷つけ合う生き方を悲しんでくださって、その必要の無い世界を造り、そこに私たちを連れていきたいと願われたのです。それは私の方から自分自身の罪深さを詮索する必要も無く、さらにはその救われ様も解らなくても、全て阿弥陀様が引き受けてくださる仏道こそが浄土真宗なのです。
ですから、いま世間ではすぐに人の善し悪しを評価し合っている現状こそ、阿弥陀様の悲しまれた姿と思うのです。たった1日、たった1回の行動で、昨日までの善人を悪人に仕上げていく恐ろしい世界がいま、そこら中に溢れていると思いませんか?
人生はもっと簡単なものと阿弥陀様は教えてくださいます。何度でもやり直しが出来るのです。しかも私の罪や悲しみも、私以上に阿弥陀様の方がよくご存じです。
もし失敗をしたら、「それでも阿弥陀様は既にご存じで、私を救うと願われてあった」と思ってください。どんな失敗でもそれによって私の未来を変えてしまおうとされないのが阿弥陀様なのです。
皆さん少し考えてみてください。私たちは人に厳しすぎませんか?住職は最近特にそう思います。間違いは正さなくてはならない。間違いでは無いでしょう。でも間違いを指摘された人は大きく傷ついています。人を傷つけた側はきっとまた傷つけ返されます。そんな私たちを阿弥陀様は見てられなかったのです。
仏様は人を傷つけません。だから阿弥陀様は「私を仏に仕上げる」ことを救いとされたのですね。