仏事・参拝・住職コラム(法話)
・親鸞聖人の魅力その2(浄土真宗はいつでも間に合っている救いです)
1月16日御正忌報恩講までのお取越し中。色々親鸞聖人のお噂話をいたしましょう!
『親鸞聖人の魅力(その2)』です。
浄土真宗的な生き様「自分を語らない」
親鸞様はほとんどご自身のお話をされなかった方です。一番大切な主著『教行信証』(キョウギョウシンショウ)でも、29歳の時法然聖人に出会い南無阿弥陀仏のお念仏の真実を教えていただき比叡山を降りる決心をしたことを、ほんと1ベージくらいおっしゃっただけです。それ以外は例えば『歎異抄』(タンニショウ)という書物で弟子の唯円さんがエピソードを語られるので分かるのと、妻であられた恵信尼(エシンニ)様が親鸞聖人が亡くなられた後に、娘の覚信尼様に宛てたお手紙(『恵信尼文書』)から、若い頃お出会いになった頃の親鸞聖人や関東でのお暮らしの想い出をお伝えであるものから想像するくらいです。
そこにこそ他力本願と言われる浄土真宗的な生き様を感じます。「私の苦労話はせず、相手様のご苦労を讃える」という生き様です。
住職が教えていただいたのは「お前は酒が好きか?ならばこれからは私はお酒が好きですとは言うでない。お酒は美味しい飲み物ですという癖をつけなさい。それでも充分に用は足るでしょう。」とある先生に教えていただきました。それが浄土真宗だと言われたのです。自分の話はせず、相手様を讃える癖をつける。簡単なようでこれがなかなか(笑)
私達は自分を語る。自分の苦労話をしたがる根性が染みついています。それでもぜひこの「私の苦労話はせず、相手様のご苦労を讃える」を実践してみてください。間違いなく新しい世界が開かれます!
浄土真宗はいつでも間に合っている救いです。私が救われるためにする必要は何も無いのです。阿弥陀様が全て整えてくださっているからです。だからこそ親鸞聖人の姿勢はいつも、
阿弥陀様が大切なのです!
親鸞様のお念仏の教えの伝え方は、徹底して「阿弥陀様という仏様は、○○してくださいます」という姿勢です。逆に「私が○○する」と言うことはほぼおっしゃらないのです。例えば南無阿弥陀仏のお念仏も、「阿弥陀様が私を呼んでくださってます」とお伝えくださいます。「私が南無阿弥陀仏とお念仏することにより」という話はなさらないのです。
我々はどうしても「救われる」為には、私は何をすべきか?と考えます。確かにその答を求めてお寺に来られる方も沢山おられます。しかしそのことを親鸞様は「雑行」(役に立たない行い)と言い切ってしまわれたのです。親鸞様にとっては具体的に9歳から29歳までの比叡山での仏門生活を「雑行」と言われておりますが、それは山の行自体が劣っていると言われたのではありません。どれだけ立派な修行でも行じる人がそれに見合わないと役に立たないということです。別の譬で「煩悩という毒に侵された病人にはどんな高価な食べ物(比叡山の修行)より一杯のお粥(念仏)がごちそうである」と言います。
私達は煩悩という欲の病に身も心も犯された存在です。自力と言いますが「我が身、我が心をたのみとする」行いでは、到底真実の生き様を実現することは微塵もありません。それでも阿弥陀様は「あなたの代わりに為べきことはこの阿弥陀が全て整えてます」と、南無阿弥陀仏と声の仏となり「大丈夫」と呼びかけてくださいました。南無阿弥陀仏のお念仏を申しながらの人生は、これまで通りの生活そのものが仏道であり、私達凡夫(ぼんぶ)のままで真実の生き様となるのです。なぜならばこのいのち終われば仏様のいのちに目覚める生き様だからです。
この浄土真宗の真実の生き様には、私がどんな生き方をして来たものであり、世間からどう言われる存在であるかは、全く関係ありません。あとどれくらいの人生であるかも関係ありません。お念仏はいつでも間に合っているとはそういうことです。そのことを親鸞様は「私では無く、お念仏となる阿弥陀様が大切です」と教えくださったのです。