仏事・参拝・住職コラム(法話)
・綺麗な心を保ちたいと願う方へ
コロナ禍で私達の心はすさんでいるなとつくづく思うのです。流れてくる言葉や映像からそれを感じるのは私だけではないと思います。それでも優しさや思いやりを持ち続ける人はとても立派だと思います。しかし、コロナ禍も一年が経ち、だんだん疲れてきたと思いませんか?自分の心の醜さを知るから気をつけている人が多いそうです。もし自分を押し殺している人はちょっと話にお付き合いください。
ところでお念仏をするのに私の心が綺麗か汚いかは関係ないのです。もしお念仏をするときは綺麗な心でしなくてはならないのではとか、お念仏していたら心が綺麗になると思っておられたら、それは違います。阿弥陀様は私の行いもそして心さえも変えようとはされません。ある意味ではそれは期待されなかったし、もう変われというのもしのびなかったのでしょう。
お念仏を申す原因は私が汚い心を抱えているという現実です。阿弥陀様は私の汚い心を放っておくことが出来ず、私に代わってご修行くださりそのお徳を南無阿弥陀仏に込めて、私の元に届けてくださったのです。だからこそ私はお念仏するものと成ったのです。でもそう思うと面白くありませんか?お念仏をしている人は、どれ程に着飾っていたとしても、どれ程に肩書きが素晴らしいとしても、汚い心を抱えているということになるのですね。
なので、住職は最近思いました。せめてお念仏をするときは、自分の汚いこころに素直に成ろうと。そしてこの汚い心に阿弥陀様がお徳をそそいでくださっていると思うと、なんとなくホッとするのです。私が立派な志であるから、阿弥陀様が私を救けてくださるのではありません。むしろ汚れたこころをもった私でもお念仏するから尊いんですね。仏様は私のことを「白蓮華」と呼んでくださいます。泥田の中でも汚れない存在と言われるのです。それは阿弥陀様が私の汚い心に宿ってくださるからでした。
話を戻します、このコロナ禍の中で多くの優しい話を聞かせてもらいます。思いやりや優しさを大切にしようとする人は、実は自分の心の汚さに気づいているのではないでしょうか。それはとても素晴らしことです。でもいつまでも我慢をして汚い心をしまっておくことは疲れることですね。だからこそ阿弥陀さまの前では汚い心を表にしていいのです。また、お寺で仏様のお話を聞くときも、この汚い心を表にして聞く方が、阿弥陀様のことがありがたいと思えるのではないでしょうか。
住職はお世話になった深川倫雄和上から「泥棒がお念仏するから尊いんだ」と、そして「仏様に褒められる人になりなさい。人に褒められてもやがてそれは裏切られます。仏様は裏切らないですよ。」と教えていただきました。仏様に褒められる人とは、汚い心を表にしてお念仏する人です。汚い心があっていいんですよ!みなさん。