仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・苦が縁となる世界

あるSNSで見た言葉です。

「若さでは経験できない老いや病の苦しみから得た何か、ただ苦しさから逃れるだけではない、辛さの中から得た人生の喜びのようなものを伝えることこそ、大人に課せられたことではないでしょうか?」(森田眞円『ひらがな浄土真宗』)

 この言葉をお伝えくださった先生は奈良のお寺のご住職です。和上とおしたいし、少しですが学問をご指導いただいたこともあります。和上の経験された想像も出来ない苦悩の事実を知りますから、このお言葉は重いものだと感じます。

 「ただ苦しさから逃れるだけではない、辛さの中から得た人生の喜びのようなもの」とは何かと考えてみましょう。そもそも人間はどんなときに苦を感じるのでしょうか?お釈迦様は四苦八苦と教えくださいます。内容はみなさんもスマホ等で調べてみてください。要は人は1人で生きられない存在ですが、この他との関わりから苦を受けるのです。愛する人がいるから憎む人もいます。より良い生活を望むから思い通りにならないことは苦となるのです。

 基本的に人はこの苦から逃れる努力は惜しみません。でもその間違い虚しさに気付き、人は時にこの苦に向き合おうとします。きっかけは「ご縁」というしか無い不思議でありますが、それは因縁も何も無しには開かれない世界です。住職はそこに仏法を聞く縁があったか無かったかが大きく関係していると思うのです。

 浄土真宗ではそれを「南無阿弥陀仏」というお念仏のいわれを聞きひらくことといいます。南無阿弥陀仏と私の口に耳に届くそんな仏様に阿弥陀様が成ろうと思われたきっかけは、阿弥陀様は私の苦を全て知ったからです。さらにその苦を私は自分で解決出来ないことまで知った阿弥陀様ですから、苦の無い世界(浄土)へ行く徳は全て阿弥陀様がご用意くださったのです。それが南無阿弥陀仏です。そして阿弥陀様は私が南無阿弥陀仏とお念仏するものと成ることを、決してあきる事無く願いはたらき続けてくださったとお経には説かれていました。

 「辛さの中から得た人生の喜び」とは浄土にたどり着く時に得るものでしょうか?住職はむしろ苦の真っ最中にこそ「あなたの苦を全て知っています。いつも一緒ですよ。」という阿弥陀様の声に出会うことと思います。それは仏法を聞いた人にだけ開かれる喜びです。ですから仏法を聞くことは大切なのです。