仏事・参拝・住職コラム(法話)

住職コラム・法話

・親鸞様について1 お念仏の教えを説く師との出会いから

今月から1月まで浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(1173〜1263)をしのびながら色々と考えてみたいと思います。今回は師となる法然聖人(ホウネンショウニン)との出会いから大切な事を考えます。

 親鸞様は9歳から比叡山に登り天台宗のご修行中の29歳の時に法然様に出会います。法然様は親鸞様の40歳年上の方でした。既に「智慧第1の法然房」と言われ、関白九条兼実からも慕われるまさに高僧でした。同時に「念仏を称えれば誰もが救われる」という主張は、特権階級や既存の一部寺院組織の反発も大きかったようです。

 これは現代でも通じる人間の悪い面が背景にあります。「誰もが」という言葉ですが、みなさんも自分自身に少し問いかけてみてください。表向きは賛成していても実は「誰でも」ではなく「自分だけ」が我々の本音ではないでしょうか?私達は残念ながら自分中心にしか価値判断が出来ないからです。「私は誰より努力をした」「私は誰よりも苦しんできた」そのように考えるくせがあります。なのでこの「誰でも救われる」は自己中心な私を満足させるものでは無かったし、かえって「誰でも」では努力をした人が報われないからかえって不公平だととらえられたのです。

 それで法然様は多くの方に慕われる一方で「法然の説く念仏は地獄に落ちるまやかしの教えだ」との噂も出回っていたのでした。

 ところが親鸞様はこの「念仏で誰もが救われる」に、もしたとえ地獄に落ちる教えであったとしても後悔はしないとまで感動し、法然様の弟子になっていくのです。

 親鸞様も「誰でも」が好きであったわけでは無く、むしろ自身も「誰でも」が嫌いで「自分だけ」と思っていることを知っていました。でもこの「自分だけ」が結局自分を苦しめていている悲しい自己の現実であることを知っておられました。まさに9歳から29歳までの比叡山延暦寺でのご修行とはその自分自身の問題の解決にあったといえます。

 しかし比叡山でのご修行によって、かえってこの悲しき自分は自分自身で解決出来ない事を知らされたのでした。そんな親鸞聖人が法然聖人の説く阿弥陀様のお念仏に感動されたのは、阿弥陀様はこの自分中心な価値観でいきている私達をお認めにはなりませんが、苦しんでいる私達を放っておけないと、私達に代わってお悟りの条件となる全ての功徳を積み、そしてそのお徳を南無阿弥陀仏に込めて、私達に届けてくださっている仏様ですから、阿弥陀様こそ本当の私達の悲しみに寄り添ってくださる仏様だと理解されたのです。

 私達はいまこの「誰もが」救われるお念仏に込められた阿弥陀様のお心を聞かせていただくことが出来ます。それはこの親鸞様と法然様の出会いがあったからなのです。