仏事・参拝・住職コラム(法話)
・浄土真宗には『死』はありません
お釈迦様の亡くなられた2月15日は『涅槃会』です。仏教ではこの娑婆の命終わることを入涅槃といい、悟りの身と成ると言うことがあります。同じ事を浄土真宗でも往生といい、私達は死とはいわず浄土に往き仏に生まれると味わっています。それは南無阿弥陀仏と成ってくだっさった阿弥陀様のお心に出会った方のお救いですが、それはどんな意味があるのでしょうか?
私自身は父(前住職)の臨終にその意味を教わりました。
父は癌で余命七ヶ月を宣告されて日に日に身心共に弱っていき、五ヶ月目には敗血症を併発し一時集中治療室に入りました。何とか一般病棟に戻ったもののいよいよベッドから起き上がることも困難になったそのときでした。病院に行くと看護師さんが「今朝はずっとうわごとをいわれてます」と言います。薬の影響かと思い病室に近づくと、聞こえてきたのは、看護師さんにはうわごとに聞こえた父の『讃仏偈』の読経でした。阿弥陀様が法蔵菩薩のとき、私を救う仏となってみせると宣言され、その最後に至っては「あなたと共に在るときがたとえ苦悩の絶えない事となっても決して悔いること無く添い遂げて見せよう」と、私のいのちの親となる誓いを建ててくださった、その偈を父は弱々しく朝からずっと唱えていたのです。こんな姿になっても阿弥陀様がご一緒くださっている。父はそれが何より嬉しかったのです。
その姿は「阿弥陀様がいてくださってよかった。いま自分は死にゆくいのちをいきているのでは無い。仏に成るいのちをいきさせていただいている。」と私に教えているようでした。私は思わず「浄土真宗でよかったなぁ阿弥陀様でよかったなぁ」と父に声を掛けました。
浄土真宗の救いとは、阿弥陀様が、この娑婆の縁尽きればお浄土へお連れくださり仏にしてくださるということですが、このことを聞いたとき、ともすれば浄土真宗は未来世の救いで今を生きる力にはならないという思い違いをしてしまいます。しかし宗祖親鸞聖人はそれはいま生きる力を恵まれることである。とお示しくださっています。それは凡夫の身のままでありながら仏となるべき身としてくださる阿弥陀様のおはたらきに、御礼申さずにはおれない御恩報謝の豊かな生活が、臨終を迎えるその時にまでご用意されているとのお示しです。そして死もまた悲しみの中に、往生する喜びもあると教えてくださったのでした。